社会が僕に向いてない

ままならんよね

結局僕らは神風教徒

 

今週は、久しぶりに労働をした。

 

職場の人たちは良い人ばかりなので、

とてもゆっくり始めさせてもらえた。

それでも、こんなに疲れてしまうのね。

 

週5フルタイムで残業しながら

遊ぶ時間も作っていたあの頃に戻れる気がしないなあ。



社会という宗教に入信しなければ生きていけない、

と思っていたけれど、もっと根が深い問題だと気が付いた。



僕らには、「殉じなければならない」信仰がある。



子供のころ、夢を持ちましょう、と教えられる。

もう少し経つと、夢なんか見てないで働け、と言われる。

 

みんな、両者の矛盾に悩むようになっていて、

働く方が楽だから、働くことになる。

でもこれって、心理学の有名なあれよね。

ダブルバインド効果。(ググった)

 

「何かに人生を捧げなければならない」

という幻想に疑問を抱かないようにできている。

 

でも、そんなことなくないか。

もう命は持ってるんだから、

それをどう配分するかは個人の自由なはずなのに、

何かに殉じないと生きていけない仕組みになっている。



一番の問題は、今さら気が付いてもどうにもならんこと。

 

子供のころに刷り込まれた価値観のせいで、

人生を捧げた夢や仕事、あるいはそれを成した人が、

とても美しいと感じてしまう。

その研鑽や乗り越えた苦難を思い涙する。

 

何に殉じるか、あるいは、

どう殉じることに美しさを感じるか。

そのバリエーションが個性だ、

ということになってしまった。

 

殉じる必要はない、といくら頭で理解しても、

殉じた方が素敵だと感じるように育ってしまった。

 

質の悪い新興宗教とやり口が同じだ。

 

大人たちは自分の人生を肯定したいから、

自分の価値観を子供に教える。

戦争は良くないと言うその口で、

自分が特攻隊と同じことをやっていて、

子供たちにも同じことをやらせようとしていることに気付かない。

 

そういうもののカウンターになるべき

(本来の意味での)サブカルチャーも、

殉じることが美しいと感じる人たちの

評価で価値が決まるので、この信仰は覆せない。



日本人は無宗教で外国人から変な目で見られる、

という話があるが、気にすることはない。

 

結局僕らは神風教徒。

 

一生うつと散歩する

 

労働が始まります。

 

うつで休職して、色々なものを整理して

ここまで来たけれど、

結局、労働が苦手な僕はそのままなので、

宝くじと労働のチキンレースが再開しただけのことです。

 


僕の世界は、理性と、本能と、社会で出来ています。

本当は、その認知こそが唯一無二の世界なのだけれど、

それは僕を救わないので、

観測者の次元から1つ降りて

僕の生きている次元に落とし込むと、

理性と、本能と、社会です。



理性はリズム、

本能はメロディ、

社会はハーモニーです。

 

だから僕はノイズや轟音が好きで、

良く調和したポップミュージックには憧れを抱いています。

 

だから僕はベースを弾いていて、

持って生まれた最大の長所である理性でなんとかしようとしてきました。

 

でも、その強い理性と相まって本能も力持ちなので、上手くいかなかったんですよね。

社会は僕の理性だけを求めるのに、僕の理性は手に余ると言うので、余計に世界が複雑です。

 

理性と本能と社会のバランスが崩れ切ったところを埋めたのが、うつという診断で、

おかげでなんとか世界が保たれている状態です。

 

仲良くなれない社会と上手くバランスをとるために、

自分だけが歩み寄るのではなくて、

社会の方が歩み寄らなきゃいけない状況を作り出せたのが、

「診断」という武器でした。

 

社会とうまくやれない人たちの声は小さいんですよ。

なぜなら、社会とうまくやれていないからです。

「診断」を持てば多少はマシになるので、

上手くいかん日々なら、一度受診をおすすめします。

 

僕たちは、こいつをちらつかせながら生きていくしかないんです。

暴力に対抗しうる唯一の手段は暴力です。



社会が僕に向いてない。