社会が僕に向いてない

ままならんよね

六本木と夜の朝

 

六本木という街が苦手だ。

 

僕がなれなかった、バイタリティで事を興す、優秀で鼻持ちならない街だからだ。

 

見渡す必要もなく、金と、性が、転がっている。

 

デザインの展示に来てみたけれど、あんなに空間が空いているのに、なんだか、ごみごみしていて、喫煙所に逃げ込んでしまった。

 

喫煙所すら落ち着かない場所になっていて、ピカピカの革靴でTシャツを着た30代くらいの男性や、白いブラウスに花柄のロングスカート、あるいは肩を出して爪の綺麗な若い女性。

綺麗で広い喫煙所の隅で、2本目に火をつけたところ。

 

一緒に来た人に黙ってここにいるから、そろそろ戻らなくちゃ。

これが僕の精一杯の社会性。

復職再挑戦に寄せて

 雨の日には、心身二元論が頭をもたげる。

 インテリジェントデザインがもっともらしく見えるのは人類のインテリジェンスの積み重ねによるものだと理解しているし、実業家の本が売れるのは僕たちが望んで搾取される側に回っているからだということにも薄々気がついている。それでも、低気圧が僕の体を拡げるとき、雨のことは好きなんだけどな、と思うのは、心のせいだと感じてしまう。そうやって論理的な思考と感情が対立するのも、やっぱり心のせいに違いなかった。6月は雨の季節で、去年も復職を試みた季節だった。人間になじめない僕を自分のどこかで許せるように、心身が乖離する時分を選んだのかもしれない。

 ミニマリストだね、と言われるたびに顔を伏せてしまう。僕がユニクロで同じ型の黒いシャツを5枚買って着まわしているのは、決してミニマルであろうとしているのではなく、シンプルであればいいのにという子供のような幻想を捨てきれずにいるからだった。変わり者に流行りの言葉をあてはめて、なんとか理解しようとしてくれているけれど、最近黒いワンピースを買ったのは社会への歩み寄りであるということに、だから、彼らが気付くはずもなかった。彼らは同様に、多様性を尊重しなければならないと叫ぶ。でも、僕らが求めるのは歩み寄りではなく攻撃を受けないことで、身を守るために少しだけ社会に身を寄せるのだけれど、おそらくそれが彼らと同じように生活したいと思っているように見えるのだろう。あなたのことを理解します、と言いながら近寄ってくる彼らは、拳銃を持った狂人にしか見えなかった。

 

 復職を明日に控えて、そんなことを、改めて考えていました。どうか、平和に暮らせますように。

言葉狩りと校閲

 外人、という言葉を使ったときに同級生に窘められたことを、今でも根に持っている。

 確かに粗暴な言葉ではあるので、もっと上品な表現が良いと言われたら、まあ、そうですね、と思う。しかし彼は、外人は人の外と書くから人間に対する表現ではない、と続けた。当時の僕は、言いようのない気持ち悪さを覚えながら、はあ、と言った。その気持ち悪さを言語化できるようになったのは、最近のことだ。

 人の外、という概念に対しては、人外という言葉が用意されている。それとは別に、わざわざ外国の人を指す表現として外人という言葉があるのに、なぜ外人にまで人の外という意味をつけたがるのだろうか。外人そのものは中立的な言葉であるのに、見た目と音が人外そっくりなせいで、まるで外国の方への否定的な言葉のように聞こえる人が(多分僕が思っているより)多いらしい。だから、公的な場面では外人という表現を避けたほうが良いというのは僕も同意見で、半ば皮肉のように外国人という言葉を使う。否定的なニュアンスを持たなかった「外人」という言葉を狩ったせいで、「外国人」という言葉が言葉狩りストへの否定的なニュアンスを持ってしまった例である。

 

 似たような例として、「障害」がある。足を突っ込むべきではないかもしれないが、僕は「障碍」とか「障がい」という表現があまり好きではない。障害を持った当事者が、自分のことを害のように呼ぶのはやめて、と言っているのなら、「障害」と言うべきではないのだろう。一方で、周りの人間が、「障害」という言葉はよくない、と叫んでいるだけであれば、「障碍」や「障がい」が障害を持つ人に対する(無自覚で)否定的なニュアンスを持つ。そもそも「障害」というのは、人間を指してその人が害である、という言葉ではなく、その人間が生きていく上で障りのある害が存在している、という意味なので、的外れな指摘である。それなのに他人がケチをつけるとき、その他人がわざわざ「害」という文字を避けるのは、いったいどうしてでしょうねえ。

 少なくとも、本人が言っているのかどうか僕にはわからないので、僕の好みを優先して「障害」を使っているが、障害を持つ本人から苦情が来たらやめようと思っている。ちなみに、障害者、というと確かにその人そのものが障害である、というニュアンスを持つように感じるので、それはできる限り使わないように意識している。それは、漢字を変えたところで変わらない、単語の構造上の問題だ。

 

 人の誤りを指摘するのは非常に気持ちがいいことで、最も簡単な手段が言葉狩りである。1つの言葉に対して1つの知識があれば、とりあえず1つの指摘ができる。しかも本人にはそれが言葉狩りであるという意識はなく、なんなら校閲だと思っている節がある。しかし、言葉狩りはちょっとした知識があれば誰にでもできる一方で、校閲には豊富な知識と文脈を理解するだけの知恵が必要である。人の文章を正そうと思えば、当然のことだ。

 例えば、「役不足」という言葉がある。誤用の例としてよくやり玉にあがるが、そんなに簡単な話ではない。役不足とは、その人の能力に見合わない軽い役目が与えられることを指す。それはそう。だから、「私では役不足ですぅ」は誤用だ、という指摘である。そんなことはない。正確に言うと、誤用ではない場合がある。

 皆さんはご存じないかもしれないが、日本には、比喩と謙遜というものが存在する。比喩とは、本当はそうではないものを他のもので例えることで、「彼の歌声はムクドリのようだ」といった表現のことである。謙遜とは、周りの人を立てるために使われる、自らを下げる表現のことで、大抵「私なんて」で始まる。

 話を「私では役不足ですぅ」に戻す。まず、冒頭の「私では」は今から謙遜しますよ、という意思表示であり、「私なんて」とほぼ同義である。その枕詞を置いた上で使われる「役不足」は、明らかに謙遜のニュアンスで使われている。本来逆の意味なのになぜ謙遜になるのかを説明するために、「役不足」の構造を整理しよう。

 「役不足」には、一人の人間と、人間に与えられる役目、が登場する。その人間に対して役目が軽すぎる、というのが「役不足」だが、ここで重要なのは、「役不足」ではない場合の人間と役目の上下関係である。人間がいなければそこに役目は与えられないので、構造上、人間のほうが役目よりも上位の概念だといえる。ここで「私では役不足ですぅ」に帰ると、「一人の人間である私」を「役目」に例え(比喩)、「役目さん」を「私」よりも上位の概念に据える、という謙遜の構図が見えてくる。

 すなわち、「私では役不足ですぅ」のうち、「私では役」までの中に、「私」という役目程度では、「役目さん」には敵わないっすわ、というニュアンスが含まれることになる。その後の「不足ですぅ」で、さらに「私」という役目が「役目さん」に対して不足していることを指摘しており、ここに「私では役不足ですぅ」による謙遜が成る。こじつけのように聞こえるかもしれないが、要は、「役不足」の本来を意味を理解した上で「私では役不足ですぅ」と言う場合は誤用とは言えないので、そこまで考えが至らずにケチをつけるのは校閲ではなく言葉狩りに過ぎないということである。

 

 言葉のプロではない私がこうして書いていることも言葉狩りである。その辺の素人の指摘など、すべて言葉狩りである。なぜなら単語の意味は文脈で変わりうるものであり、その文脈を理解するに足る知恵の研鑽は、その道のプロのみが積んできたものだからである。ただし、専門用語だけは言葉のプロの守備範囲外なので、専門家に任せる必要がある。文脈を理解するのに、その分野の深い知識が必要だからである。

 

 言葉だろうと何だろうと、専門外のことにぐちぐち言うのはただの雑談ですよ、という話でした。(あなたの頭に特定の人物が浮かんだのであれば、この文章はその人物と取り巻きへの批判です)

 

読書のしかた

口をつけることはない飲み物を用意して、

いつもつけっぱなしのパソコンのモニターを消して、

窓が目に入らないように腰を据え、

宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読みました。

 

半分ほど読んだところで、催しました。

数ページ戦ってみましたが、

青いしおりを挟んでトイレに行きました。

文字が脳から剥がれ落ちないように、

頭を手で押さえながら用を足しました。

先にトイレに行っておくんだったな、と考えてしまい、

結局剥がれ落ちてしまいました。

 

自分の言葉を使いながら読むことになり、

今日の読書は失敗しました。

 

せっかくいい本だったのにな。

 

飲み物には、やっぱり口がつきませんでした。

かぞくなんてなーいさ:殴り書き編

(注:この記事は、弟への謝罪と、親への復讐のために書きました。やたら長いですが、僕の親だけは読んでください。どうせ見てるんでしょう?読んだ上で、何も連絡をよこさないでください。それがあなたたちにできる唯一の贖罪です。妹よ、君だけは読まないほうがいいよ。こんなページ早く閉じてゆっくりお休み。)




僕は、愛されて育った方だと思う。

 

衣食住が保障され、それなりの教育も受け、いろんな機会も与えられた。



それなのに、物心ついたころには、家族というものに違和感があった。

 

母は、その愛に見返りを求める人で、

父は、自身が思っているよりもずっと古い人間だった。

妹はいつの間にか産まれ、弟も、いつの間にか産まれた。

 

幼少期の僕は、

なぜ押し売られた愛に応えなければならないのか分からなかったし、

なぜ親の権力がそんなに大きいのかも分からなかった。

 

それでも、僕はよく妹と弟の面倒を見ていて、

「もう兄弟を増やさないでね」という趣旨のことを母に言ったらしい。

それを笑い話だと思っている母から聞くのは、もう少し後の話。



大人たちは、食わせてもらっているんだから、と言う。

 

子供たちは、食わせてもらっているんだから、と言う。

 

選んで食わせてもらっているわけじゃない、と言うと、

悲しい顔をされるか、脅される。

 

その前提部分で破綻した論理だから、

社会は小さいころから「産んでもらった親に感謝しましょう」を刷り込んで、

前提に疑問を抱かないようにしている。

そうしないと生きていけないものね。

 

でも、その破綻が気になってしまった僕は、テレビの家族愛では泣けなかった。

たくさんの人が涙しているのに泣けないなんて、冷たい人だ、とみんなが言う。

どう考えても前提がおかしいのに、と思いながら、泣ける、と僕も言う。



僕が中学生になっても、相変わらず母は媚びるように僕を見たし、

父は経験の一点張りで自分の正しさを妄信した。

彼らと本心でコミュニケーションをとるには、

僕が未だに「産んでもらった親に感謝しましょう」に納得できていないことを

伝えなければならなかった。

それはとても残酷だし、面倒だった。



親に、そうだね、とだけ言うようになった。



それでもまだ、母だけが「理想の家族」をやろうとしていた。

父は、中学生向けの自己啓発本を僕に渡して「家族」をしている気になっていた。



とても気持ち悪かったけれど、

傍から見れば、特に大きな問題もない普通の家族で、

それは、「大きな問題なんてない」という共通の信仰が、

家族としての最後の絆になっていたからだった。





まず、父が逃げた。




続いて、妹が逃げた。




気が付くと僕は高校生になっていて、母の嫌いなロックに傾倒した。




妹は何やら芸能活動のようなことを始めたらしい。母の嫌いそうなことだ。




弟は、みんなが放棄した親の面倒を一手に引き受けることになった。




このころは、弟だけが家族の関係に向き合っていた。

 

母は、私だけが向き合っていた、と今でも思っている。

「理想の家族」に逃げていただけなのにね。

 

バンド界隈に身を置くと、家族がらみの問題なんてその辺に転がっていたから、

「大きな問題なんてない」を信じやすかった。

だから僕は音楽の力なんて信じていなくて、

ただ手に取ったのが音楽だっただけだな、と思う。

 

母に優しくするのをよってたかって弟に押し付け、

父が子供たちをエンタメとして消費するのを感じながら、

僕は大学生になった。



大好きなバンドをやめてまで東京に逃げたけれど、「家族」は東京にもついてきた。

弟は「家族」の犠牲になり、中学校を転校することになった。

 

東京に行くためにバンドを抜けることを知って何故か怒った母も、

怒った母から連絡が来た、とわざわざ僕に告げた父も、

自分で去就を決めたつもりでいた僕も、

自分たちが悪いことに気が付く気配がなかった。

 

東京で、「家族」5人の暮らしが久々に始まった。

 

全くうまくいかなかったらしい。

僕は学生の身分を利用してなるべく家から離れていたし、

家にいるときは部屋にこもっていたから、弟と妹ほどには知らない。




やがて両親は、不和を隠すことを諦めた。

「大きな問題ではない」信仰が破綻した。

 

怒声と嗚咽。

彼らは子供に救いを求める。

 

自分たちでめちゃくちゃにしたのに、尻ぬぐいは子供のお仕事なのね。

 

僕はかかわりたくなかったので家を出た。

 

たぶん僕が当時の彼女と同棲を始めたのは、

説明して回ったような理由ではなくて、

親とかかわりたくなかったのが大きかったと思う。ごめんね。

 

父と妹もいつの間にか家を出て、

弟は、母と二人で暮らしながら、空洞ですを歌っていた。

誇らしげな父からそれを聞いたけれど、悔いこそすれ、誇るようなことではないよ。



そうやって、いつの間にか、親と仲良くするメリットが

お金くらいしかなくなっていった。

同じくらいの時期から、父がしきりに親孝行について語るようになったけれど、

甘めに見積もっても、今まで生かしてもらったのと、

こんな思想の人間に育てられたのとでトントンですよ。

 

親孝行をさせたかったら、「家族愛」か「生きていれば十分」を

信じるように育てないといけなかった。どちらかで良かった。

何を言っているか分からないでしょう?

なんでそんなに悪く言われるのか分からないでしょう?

だから、こうなっているんだよ。



この後、最近までの話は、まだちょっと消化しきれていないし、

理不尽に傷ついてしまう人がいるから、吐き出すしかなくなるまで持っときますね。



本当は、ちゃんと文章にしようかな、と思っていたお話だったのですが、

「子供たちは両親のことを気にかけていて、

 俺が再婚すると子供たちは複雑な気持ちになるだろう」と

未だに勘違いしている人がいて腹が立ったので、殴り書きで出します。

 

殴り書く以外でブログ書けたことないな。



あ、たぶん読み飛ばしたか忘れていると思うので、

念のためもう一度書いておきますね。

 

これは弟への謝罪と、親への復讐です。

僕の親たちは、これを読んで連絡をよこしたりしないでください。

 

僕は太宰が読めない

 

僕は、バンドをやっている自分が恥ずかしくて仕方がない。

みんなに顔向けができない、と思う。

 

だから、はじめましての時にバンドの話になると苦笑いしてしまうし、

趣味とも言えず、仕事にもできず、宙ぶらりんの恥が僕を責める。



ほとんど読んだことがないのに、

彼もそうだったように感じていて、

だから、恥ずかしくて、僕は太宰が読めない。

 

でも、彼は仕事にしていたから、

きっと、僕より恥ずかしかっただろうな、と思う。

 

そういう部分をポップにさらけ出すというパフォーマンスが

それ自体とても恥ずかしいのに、それでお金を稼ぐなんて、

そんなに辛いことないよね。

 

そうでもしなきゃ生きていけんし、

そうまでして生きているのも恥ずかしいし、

そう、そう、そう。



たぶんね、恥ずかしいならやめろよ、って言われるんだ。

でもね、君たちがそんなだから、

僕も、太宰も、恥ずかしく生きるしかなかったんだ。



読んだこともないくせに。

ライブ活動と1秒の価値

 

ロッキンの中止を受けて、

今まで明言してなかった気持ちを吐いておこうと思い、

久しぶりにブログを書いています。

 

bundle gaze spoonは、コロナ禍でお客さんを現場に呼ぶライブをしない、

という決断をしました。

 

これは、ライブをする人間や、ライブに行く人間を否定するものではありません。

 

僕だって、少し立場が違えばライブをしていました。

例えば高校生のころの僕なら、メンバーが首を縦に振らなければ

サポートメンバーを入れてでもライブをしていたと思います。

 

あのころの僕と今の僕で決定的に違うのは、1秒の価値です。

 

あのころの1秒は、命程度では代えられないので、きっと、ライブをしました。

今の1秒は、命には代えられないので、ライブをしていません。

 

授業中に気になるあの子の顔を盗み見ることに使える1秒と、

お金のために頭を下げることに使うしかない1秒です。

 

だから、今が命程度では代えられない1秒な人たちが

ライブをしたり、騒いだりすることについては、

僕は、当たり前だと思っていますし、

そうやって繋いでいくことも大事だと思っています。

僕にはできないことをしてくれて、感謝すらしています。

 

 

そう、自分のために、あるいは自分の好きな人のために

そういう活動をするのは良いと思うんです。

仕方ないと思うんです。

 

でもさ、みんながそうすると、大義名分を掲げだすでしょう?

 

「音楽のために、今、ライブをしなければならない」

 

これが、僕には、気持ち悪くて仕方ないんです。

 

ライブハウスが全部潰れたって、

プロのミュージシャンが全員行き倒れたって、

音楽は続きます。

 

いやわかりますよ。

確かに、今ライブを続けておくことによる

音楽界隈へのメリットはありますよ。

 

でも、デメリットは?

人が死ぬかもしれない、じゃないですよ。

人を殺すかもしれない、です。

 

人を殺すのに、みんなで掲げたスローガンを

理由にするのは卑怯だなあと思うわけです。

自分本位な理由であることを認めてくださいよ。

 

 

こういうことを言うと、ライブでクラスターは発生していない!

何も知らずに四の五の言うな!という人がいますね。

 

クラスターが発生しなかったらいいわけじゃないんですよ。

ライブがなければ近寄ることがなかった人たちが

ライブによって近寄ることになれば、その分、

感染者が増えるリスクが高まります。

 

感染対策をすれば100%大丈夫、な訳がないんですよ。

人と人が接する回数や組み合わせが増えれば増えるほど、

感染者が増えるリスクが高くなります。

 

そして、感染した原因なんて、特定できることのほうが稀です。

ライブによる感染者は、表に出ていないだけで、絶対にもっといます。

 

 

頭に血が上ってきたので、もうやめておきます。

 

音楽を、ライブを続けてくれてありがとうな。

でも、人のせいにするのは卑怯だぞ。

という話でした。

 

 

オリンピックだけはおかしいと言い続けるけどな。

マジでふざけんな。

勝手にやるのは良いけど巻き込むなよ。

子供を巻き込むなよ。

学校に責任を押し付けるなよ。

なるほどたしかに緊急事態。