社会が僕に向いてない

ままならんよね

言葉狩りと校閲

 外人、という言葉を使ったときに同級生に窘められたことを、今でも根に持っている。

 確かに粗暴な言葉ではあるので、もっと上品な表現が良いと言われたら、まあ、そうですね、と思う。しかし彼は、外人は人の外と書くから人間に対する表現ではない、と続けた。当時の僕は、言いようのない気持ち悪さを覚えながら、はあ、と言った。その気持ち悪さを言語化できるようになったのは、最近のことだ。

 人の外、という概念に対しては、人外という言葉が用意されている。それとは別に、わざわざ外国の人を指す表現として外人という言葉があるのに、なぜ外人にまで人の外という意味をつけたがるのだろうか。外人そのものは中立的な言葉であるのに、見た目と音が人外そっくりなせいで、まるで外国の方への否定的な言葉のように聞こえる人が(多分僕が思っているより)多いらしい。だから、公的な場面では外人という表現を避けたほうが良いというのは僕も同意見で、半ば皮肉のように外国人という言葉を使う。否定的なニュアンスを持たなかった「外人」という言葉を狩ったせいで、「外国人」という言葉が言葉狩りストへの否定的なニュアンスを持ってしまった例である。

 

 似たような例として、「障害」がある。足を突っ込むべきではないかもしれないが、僕は「障碍」とか「障がい」という表現があまり好きではない。障害を持った当事者が、自分のことを害のように呼ぶのはやめて、と言っているのなら、「障害」と言うべきではないのだろう。一方で、周りの人間が、「障害」という言葉はよくない、と叫んでいるだけであれば、「障碍」や「障がい」が障害を持つ人に対する(無自覚で)否定的なニュアンスを持つ。そもそも「障害」というのは、人間を指してその人が害である、という言葉ではなく、その人間が生きていく上で障りのある害が存在している、という意味なので、的外れな指摘である。それなのに他人がケチをつけるとき、その他人がわざわざ「害」という文字を避けるのは、いったいどうしてでしょうねえ。

 少なくとも、本人が言っているのかどうか僕にはわからないので、僕の好みを優先して「障害」を使っているが、障害を持つ本人から苦情が来たらやめようと思っている。ちなみに、障害者、というと確かにその人そのものが障害である、というニュアンスを持つように感じるので、それはできる限り使わないように意識している。それは、漢字を変えたところで変わらない、単語の構造上の問題だ。

 

 人の誤りを指摘するのは非常に気持ちがいいことで、最も簡単な手段が言葉狩りである。1つの言葉に対して1つの知識があれば、とりあえず1つの指摘ができる。しかも本人にはそれが言葉狩りであるという意識はなく、なんなら校閲だと思っている節がある。しかし、言葉狩りはちょっとした知識があれば誰にでもできる一方で、校閲には豊富な知識と文脈を理解するだけの知恵が必要である。人の文章を正そうと思えば、当然のことだ。

 例えば、「役不足」という言葉がある。誤用の例としてよくやり玉にあがるが、そんなに簡単な話ではない。役不足とは、その人の能力に見合わない軽い役目が与えられることを指す。それはそう。だから、「私では役不足ですぅ」は誤用だ、という指摘である。そんなことはない。正確に言うと、誤用ではない場合がある。

 皆さんはご存じないかもしれないが、日本には、比喩と謙遜というものが存在する。比喩とは、本当はそうではないものを他のもので例えることで、「彼の歌声はムクドリのようだ」といった表現のことである。謙遜とは、周りの人を立てるために使われる、自らを下げる表現のことで、大抵「私なんて」で始まる。

 話を「私では役不足ですぅ」に戻す。まず、冒頭の「私では」は今から謙遜しますよ、という意思表示であり、「私なんて」とほぼ同義である。その枕詞を置いた上で使われる「役不足」は、明らかに謙遜のニュアンスで使われている。本来逆の意味なのになぜ謙遜になるのかを説明するために、「役不足」の構造を整理しよう。

 「役不足」には、一人の人間と、人間に与えられる役目、が登場する。その人間に対して役目が軽すぎる、というのが「役不足」だが、ここで重要なのは、「役不足」ではない場合の人間と役目の上下関係である。人間がいなければそこに役目は与えられないので、構造上、人間のほうが役目よりも上位の概念だといえる。ここで「私では役不足ですぅ」に帰ると、「一人の人間である私」を「役目」に例え(比喩)、「役目さん」を「私」よりも上位の概念に据える、という謙遜の構図が見えてくる。

 すなわち、「私では役不足ですぅ」のうち、「私では役」までの中に、「私」という役目程度では、「役目さん」には敵わないっすわ、というニュアンスが含まれることになる。その後の「不足ですぅ」で、さらに「私」という役目が「役目さん」に対して不足していることを指摘しており、ここに「私では役不足ですぅ」による謙遜が成る。こじつけのように聞こえるかもしれないが、要は、「役不足」の本来を意味を理解した上で「私では役不足ですぅ」と言う場合は誤用とは言えないので、そこまで考えが至らずにケチをつけるのは校閲ではなく言葉狩りに過ぎないということである。

 

 言葉のプロではない私がこうして書いていることも言葉狩りである。その辺の素人の指摘など、すべて言葉狩りである。なぜなら単語の意味は文脈で変わりうるものであり、その文脈を理解するに足る知恵の研鑽は、その道のプロのみが積んできたものだからである。ただし、専門用語だけは言葉のプロの守備範囲外なので、専門家に任せる必要がある。文脈を理解するのに、その分野の深い知識が必要だからである。

 

 言葉だろうと何だろうと、専門外のことにぐちぐち言うのはただの雑談ですよ、という話でした。(あなたの頭に特定の人物が浮かんだのであれば、この文章はその人物と取り巻きへの批判です)